超早送りでチャルメラの音が聞こえた。
「・・・人生の分かれ道やね」
変身すると咳が止まるヒーロー。
「寒いけど汗だく」とかいちばん困る。
服を脱いだり着たりの繰り返しで郷ひろみ状態。
あなたのヤル気スイッチ、アビィに落ちてますよ!
忘れたい月末ならなんぼでもあるのに。
写真でウソをつくなら「もっともらしいウソ」をつかなきゃいけない。アタマからウソ丸判りは写真の場合つまんない。けども、ウソだと思って見てもらえるようなウソ、そういうのを作るのがいい。
昨夜ばかりは夢に父親が出てくるかと思ったが、なんの夢も見なかった。
真っ二つに折れたA1プリント。
2011.12
あー、なんかもう、とっとと正月も終わって平常に戻ったらいいのになぁ。
そもそもアンテナ線をテレビに繋いでいない。
個人事業主やめたい(笑)
僕にとって年末は月末の一種にすぎない。
昨夜あんまり寝てないから眠い。
食べられる前の焼き魚になったような気分だった。
枕元に靴下を置いておくとサンタさんがプレゼントを入れてくれると親戚の人から聞いて、クリスマスのたびに靴下を置いて寝た.。そして毎年、翌朝になっても靴下の中はカラッポだった。サンタの存在に疑問を抱く余地もなく大人になった。
個展のさいは冷蔵庫のカビ取り剤を差し入れます。
串カツ屋でオデン食べてる、なぜか。
ナビタイムのおっさんが現れて、キリリッと僕の方を指差し、「間に合いませんよ?!」って言われた。
あくまでも0%ではないこの中途半端さがステキ。
もともと人を選んでますから。
アコースティックなトイデジ。
どの写真に変態を感じたかで心理テストができます。
片付けた壁面を見てしばし放心。
押し出されるように前へ進みながら、また新しい分かれ道を見つけていく。
吹雪大樹はボルタレンを手に入れた。
期待するからガッカリするんだとお釈迦様は言う。
僕の母親は詩人だった。いまの僕の創作に多少の影響を与えている人だ。なにか似ている。そしてカオは激似。
節子、本物のマカロンやー!(火垂るの墓より)
挑発ではない。仕掛けていく感じ。
「撮ること」は写真表現のほんの一部分の要素にすぎない。「撮ること」なんていういちばんカンタンな作業だけで作品が出来るなら、誰も苦労はしない。
20代のころ、夜な夜な心斎橋のアーケードに座り込み、自分が撮った写真をハガキに印刷して1枚100円で売っていた。ほんの2、3時間で目の前を数千人が通り過ぎる。僕とは何の関係もない100人ぐらいが足を止め、見ず知らずの5人ぐらいが買っていく。
写真とか展示とか表現のこととか、身を削るような思いのめんどくさいことからスッカリ足を洗って穏やかに暮らしてみたいと思うけど、もしそれをやめたら、僕なんて人間のカタチをしたゴミみたいなもんだ。
飲食店での写真展示って言うのはいろいろ勉強になる。まず、写真というモノの弱さが判る。そして自分になんの興味も無い人を振り向かせるだけのチカラが自分の作るモノに宿っているかどうかも知ることが出来る。もしそれが怖かったら、、、友達をファミレスに呼んで自慢のアルバムを見せればいい。
表現に関わること以外で、僕になにか取り柄があるのかい??僕は誰かの子供であり、そして誰かの夫であるぐらいの事実しか思い浮かばない・・・それだけで充分なのかな。
ケツだけなら摩耶仙人といい勝負ができるかもしれん。だが俺に腹筋は、ない。
答えのなくなったクロスワードパズルみたいな感じ。
ニュースといっても、誰かが書いてる以上、バイアスはかかってしまう。
マッサージチェアの肩揉みするとこに頭を挟んでみるとなかなか心地よい震動が。
ちょっと先といまの間が恐ろしく退屈なんだよ。
ついこの間まで血を吐く思いで選び続けてやっと決めた写真たちなのに、一ヶ月ほどたって見返せば、もう自分が変わっている。
スケジュールの埋まり方と場所の在り方と経営は噛み合わない事柄同士。アビィが終わるときにする展示はずっと前から、コレ!って決めてる内容のがあって、その募集をせずに済んだらいいね。
「わからない」コトがあるからヒトは強くなれるのだと思うし、「わからない」コトと出会ったがために、諦めたりもできるのでしょう。
パッと見で、ちょっと似た雰囲気の作品をつくる人たちがいる。それを混ぜて見せることによって、両者の決定的な違いが判るのか、それともさらに見分けがつかなくなってしまうのか。それには、合わせるように作るのか、すれ違う部分があるように選ぶのか、そういうことも影響してくるのだろう。
Macの無線マウスをうっかり前後反対に持つと、しばらく悩むよね。
僕の場合、なんの展示に使うつもりなのかも判らないままに写真をレタッチしているのが、趣味の世界ということになります。
雑煮ができたのに正月の箸がない。
2012.1
練習してるだけでは成績は残せない。
この2年半でかなりの数のアメリカ人に自宅大公開してるよ。
人によってペースは様々だから、めまぐるしくあちこちで展示する必要も無いが、年に2回でも3回でも、展示を常に意識して取り組み続けている心の状態を保って欲しい。
誰かの心の隙間に知らぬ間に入り込んで、二度と抜けて外れなくなるような、そんなモノを作っていきたいね。それが善いものでも悪いものであっても。
音楽と合わさって目に写る車窓の風景は、窓がスクリーンになって映画のワンシーンのようだった。
石炭で動いてます。
酔ってるせいか、ときどき妻に敬語で話し掛けてしまう。僕は誰?
アルデンテのような芯のある人間になりたい。
「文通したいです。ただし前世がカッパの人」
僕はどちらかというと、死ぬまで40歳。
せっかく来て頂いたお客様であっても、蹴っ飛ばしたろかって思うときはあるよね。
宇宙人でも睡眠不足で肌荒れします。
自分でレーベルを立ち上げてそこで発表して生きていけたら素晴らしいなぁ。名前は「未定」でいく。
確実に失敗する方法は残念ながら数限りなく知っている。
時がくればモザイクが外れてポロリになります。
右手に掲げているのは生贄の心臓です。
100%想定どおりのものを撮って、それが実現できて、よく撮れたけど、そこには驚きがないんです。
前後があるから目立つ二枚目なのかも。
「男同士見せあいっこしましょう!」に空目してアセる。
まあ、そんなこと言ってられるうちは平和なんだよ。
天才じゃないやつは、まず撮ることによって始めるしかない。
吹雪でも大樹でもないです。
「TVカメラマンの仕事が忙しすぎて映画が作れないので、ひとりでもできる写真を始めた」っていうのは人にもよく言う事だし、今回の番組でも話した事だけど、よく考えたらおかしな話だよね。写真を始めた理由が「忙しいから」って。どんだけ貪欲なんだろう・・・笑
2012.2
平日の昼間っから開いてる酒場でボーッとテレビ見ながら、こんな時間に飲みに来てる客は一体ナニやってる人なんだろうか・・・と考えてたら、自分もその一員じゃないか・・・と気付きつつ飲むお酒はナカナカなんともいえない。
僕の名乗ってる「写真映像作家」というのは、「写真」と「映像」をやってるということではなく、あくまでも「写真映像」ということ。
全力で手羽先。
いろいろな角度から眠気が襲ってくる。
なにかフツっと足らないものを埋めるのに、表現するコトを続けるのかもしれないし、そのためには開けたり通したりする勇気も、コソッとあるのでしょう。
うまいこと返信されて腹が立つ。
そんなのアナタっぽくないと言われても、作っているのは僕自身なのだからそれは違うと言い切ってみる、、、でも自分がそう思うのもおかしいんじゃないだろうか・・・しかしそれで片付けていいのか?
思うがままに書いてくれたら赤ペン先生しますから。
大物が来るときはなぜかいつも昼飯前。
真逆の印象の物がぶつかって生まれる調和は強い。
自分のやりたいとおりにフルにアクセスできるよりも、何かしら制約や制限のあるときのほうが良いものが出来る気がする。
ビッグマックが常に最高峰。
外人さんが手間ひまかけて勝手に引用してくれたりとか、もうそこまでやってくれるなら、むしろそれで本望。
パチンコやめれない人と同じかもしれないですね。
暇があるから何かしようか〜って人と、生き方としてなにかしなければならない人の違いなんだろうか。
殺せないほど寝てる。
線香くさいってのは、たぶん、自分のルーツとなる場所の風景や風土を撮っている、っていう意味で書いてらっしゃるんだと思いますよ。
うまくしてやろうなんて思わない事。
大仁田厚に電流爆破されたい!!
道具としてはまだ混沌とした感じだが、それでも少しだけ深層が見えてきた感じがする。
たんにその土地が自分の呼吸に合うかどうかってだけで、どこで撮っても同じなんですよ。でもそこにしかない物が写ってる。
オデコが広いと童顔に見える説。
他の人と同じ事を実践して作ってるだけなら、それは自分じゃない・・・のかな。でも自分なんかちっぽけなもんだ。
決定的瞬間ではなくて、誰でもそこに居合わせれば充分にシャッターボタンを押す事ができる機会でありながら、他者には写し撮れない写真。見るからにスゴイでしょみたいなトコやコトには興味がなくて、誰でも見てる当たり前の風景の中で自分の胸を焦がしたい。
大嫌いなはずの紅しょうがを美味く感じる…今日は俺の命日なのか。
廃墟の写真と富士山の写真て同じなんですよね。
廃墟で撮ってるけど廃墟を撮ってない写真がいいですね。
写真は被写体がなかったら成立しないから、被写体に助けてもらうのは当たり前。被写体に撮らされてはいけないってことです。
僕にとってはそういう余白の多いのが「いい写真」です。
目に見えるものを良いカンジに撮りたいだけなら絵を描いたほうがいいですよね。
表現は正解がないことですから、感想は好き嫌いしかないんですよね。
他人の批評で左右されるようでは初めから表現者としてダメなんだろうなということです。
最初から振り切っちゃってる人がいい。そういう人をずっと探してます。
「気がつけば真逆な買い物現象」
フィルムのホルガはカメラが汚れたら洗っても大丈夫です。
やはりセットアップして撮るのは苦手。
イカソーメン3本分ぐらいの幅で切るのがオススメです。
観客に媚びずに、なおかつ、喜ばれる裏切り方をする。
ペラッペラの確定申告書を提出してきた。
今週は写真と文章をセットにする公募展を2つ観た。僕は映画制作における「脚本」が本格的な表現活動のスタートなのでいろいろ興味深かった。重要なことは「書きすぎてはいけない」ということ。それは「写真を撮る」ことでも同じだろう。本当に言いたいことを画にも字にも直接入れると広がらなくなる。
そういう点で、詩や俳句や台詞は写真と似ているなと思う。
本当に言いたいことを画にも字にも直接入れると広がらなくなる・・・じゃあそれが入ってたらどうなんだ?というと、それは作文や記録なのだと思うし、それがそれらのモノの本質だ。だから、それがどこから作品に変化するのか、いつも考えていきたい。
もっとスゴイ変態が少なくとも2人います。
表現について妻と談義。場所は王将。餃子は食べない。
いつだって創作は手探りです。先が見えてしまっているよりは、ずっといいことかなと思っています。
感動しているわけでもないのに目頭が熱いのは花粉のせいである。
出来上がっていないジグソーパズルのところどころに、関係のないピースを無理矢理詰めてみようかな。
クロエ・モレッツで画像検索!
葛根湯(ペットボトル500ml入り)
安らかに眠りたいですね。
領収証から発散される有毒ガスのせいで息が苦しくなってきた。領収書の束の中から一円玉が三枚出てきた。そのあと、絆創膏が三枚出てきた。
テレビカメラマンしてた頃、バイトの子らで、写真やってるのがけっこういた。みんなどうしてるんだろう。会わないなぁ。
新聞社にいた頃、暗室を教えてもらったカメラマンさんたちの名前が不意に浮かび始める。栗田さん、郷原さん、安本さん、矢吹さん、、、顔は浮かぶけど名前が出てこない方も2,3名。。。あんなに毎日野球場にいたのに辞めてから一度も行ってない。西宮、藤井寺、難波、日生は球場自体もう無いし。
二日酔いの苦しみの方が金縛りに勝る。
表現活動みたいなことやってみようかという時点で、もう真人間じゃない。
桂三枝の弟子、桂三D。
2012.3
愛と身体が壊れん程度に。
「小エビの天ぷら越しのオレ」というのもあったが、「酢豚越し」にして正解だったと思う。
ファイル名順に4列4段で整列させただけでも、なんだか意思を持って組んだような雰囲気に見えてくるので面白い。
”ダメなるならそこまでのもんだった!”と思うとホントウにそこまでのモンになってしまうことが多いのでご注意ください。
何にくっつけるかで写真1枚の意味なんていくらでも変えていける。
乳首乳首言い過ぎてノドが痛くなる。
やたら「乳首」と連呼した奇妙な時間であった。
削れば削るほど純度は増すのだが、どういうわけか薄くなっていく。何の混じりけもない蒸留水みたいな感じ。研ぎ澄まされているけど、やりたかったことはこんなんじゃない。色んなコトを混ぜて、不味いような旨いような、そういうものを作りたい。
創るという事、芸術という事は、こういうコトなのだなと思いました。誰かを元気にしたり世の中を良くしたり、そういうために創るんじゃなくて、まず自分が何者であるのかを形作ってみせる事、それが本当に大事なのだなと感じました。
風邪、腰、ビンボー、三重苦です!!(←ビンボーはもとから)
履かないミニスカートなのか、履けないぐらい短いミニスカートなのか、そこが問題だ!
通帳の残高がゼロになっていることには毎月気付きます。
いまやることがたくさんあって、ショーモナイことを考えるヒマがないから、気分イイわ。
シモジマはオレを裏切らないぜ!!
悩むー!!( ̄〜 ̄;)顔文字なんか使っちゃうぐらい悩むー!
アビィにずっといると、僕は留まってるだけなのに、壁に貼ってる写真とかやってくる人が次々に入れ替わるので、なんか部屋ごと何処かへ移動しているような錯覚を感じる事もある。
言葉も文化も違う人に何かを感じて貰えるのは嬉しいね。
12年前の仲間と開いたグループ展の時の感想ノートが出てきた。覚えている名前もあれば誰かわからない人、わからなくなった人もいる。ほんの短い期間の顔見知りだった人から今の僕の核心を突いた感想があって驚く。あれから大して進歩してないな、オレ。笑
(2012.4)