眉毛も金色にしないと、ほんとうの外人サンにはなれない。
「DM宛名麺見本です」という件名でメールを送ってしまった。
吹雪って名前の人にフォローされた!その人のフォローしてる人を見たらみんな名前に吹雪が入ってた。世間には吹雪さんがいっぱいなことを知る、笑
僕の場合は、次の人にすべて譲渡して、失踪したいです。
どんなところを目指すイベントなのかを明確にして、少ないコストでインパクトのあるものにしないとですね。広く受け入れたらお祭りにはなるけどガチさはなくなる。狭き門でガチにいけばついてこれる人は少ない。さあ、どっち?
作家名というのはその人の積み重ねた結果によって本当の名前になっていくものだと思う。
まあ、僕個人の見解なのでやりたくなかったら無視してください(笑)
僕自身としては作家名を伏せた展示にはたいへん懐疑的にならざるをえないです。
「続きはWebで」ってのが日本の広告のいろんなことをダメにしてしまった気がする!
たくさんの石の中から何かの原石を拾い上げて目利きをする側からすると、あのイベントは、どんな作品に出会えるのか本当に楽しみのある催しだ。目一杯自己主張してガチャガチャしてほしい。スッキリ洗練されるのはその後からでいいよ。普通に観に来た人には度量が問われてしまう事だけど。
まずまず名の広がってきた作家の展示ならいざしらず、今これからっていう人の展示に僕は完成度を求めてはいない。その先を見せて欲しいと思える作品かどうかが大事。そういうものに出会いたいからひたすら石を拾い続ける。始めから磨かれてピカピカしてる石はそれに適した人が拾えばいい。
もちろん「完成度」というのは中身の事であって「外側=展示物そのもの」の部分はちゃんと作っていて欲しい。心血を注いで表した自分の作品を、理由や狙いも無く大雑把にカタチにしているのでは評価以前のことになってしまう。しかしそれでも強く輝いている作品がホンモノの写真なのかもしれない。
視線はハッキリ存在するので、キュッと握り返してくるようなチカラを写真の中に!
案外、見つめ合うだけなのが、目の前にいるのにいちばん想像が膨らんで、直接触れるよりいいんじゃないですかねぇ。
みんなヨカッタよ!とカンタンには言えないけど、それぞれの道を脱輪するイキオイでもっと進んでホシイです!
5巡ぐらい見てメイン会場に戻ると食べるものがもう枝豆しか残ってなかった。
自分が面白いと思ったことは誰に何と言われようと信念をもって続けてください。意見や感想は軌道修正の参考にして大事に頂戴しましょう。強くなれる。
変な夢はあなたの個性のせいだと思います。
ちゃんと血の味がした。オレ、生きてるね。
動画を8mm映画風に加工するアプリとかもそうですね。本当の8mm映像を知らない人が、巷にあふれる「それ風」のイメージを元に作ってる。本物とは全然違うんですけど、本物が無くなった世界の中では、誤ったイメージが「ホンモノ」になってしまうのでしょうね。
黒ハレパネはたくさんの枚数があると展示の見た目がイカつくなる。
「トイカメラアプリの雰囲気が再現された」って、もう苦笑するしかないですねぇ。
8曲54分間あったのを4曲19分間に減らす。
宅急便の送り状、4回連続で書き損じる。東京をなぜか東木と書いてしまう。もう最期も近そう。
なんとなく「田園に死す」のような。
清めの塩はヒマラヤ岩塩でお願いします。
アビィとトイカメ関係で若手作家ドリームチーム作りたいなぁ。
「思ったように撮る」のがホルガにとっていちばん難しい事です。ダメだった写真が今は使えないとしても、今後の作品づくりために、実はそれは自分の想定を超えている写真なのかも!
写真って「写す」のではなくて「写ってしまう」面白さがある。今回の吹雪さんの写真は、写真集で見た瞬間どきっとした。「吹雪さん死んじゃうんじゃない?」と。
「なんでもない日常」は明日がくる事を疑わないからそう思えるのだ。明日にはこの日常が無いかもしれないことが事実として現れた瞬間、それは大切なものとなる。それが吹雪さんの写真には写ってしまっているのです。
(杉守さん)
パンツは近所の商店街のコボって店で買ってきてもらう。
下品とか過激じゃなくて、クレイジー。
人からの評価がどうとか、そういう心配はなくて、ただただ、多くの人に見てもらえて、なにかを考えてもらえるキカッケになれば、それでうれしい。答えが難しいクイズの問題を考えるために写真を撮って表しているのではないから。
スナップの人は撮り続けることによってどこかに取っ掛かりを見つけます。自分で何か作っても上手くできないですね。
痩せて一番寒くなったのはアゴまわり。
昔の映画の場合、カラーかモノクロかは、たんに予算の問題だけであったりするんですけどね、笑。現代ではそこにまた違った意味合いを孕むのが面白く感じます。
昨年の個展3部作の写真63枚から選ばれた22枚が今日から東京のギャラリーで展示されている。僕のセレクトしたものから半分ぐらいをディレクターの杉守さんが入れ替えた。あの写真が抜けてこんな写真が加えられた。組み替えられて浮かび上がるコトに自分でも驚いた。写真で表す事は面白い。
VQの写真をレタッチしていると、浅い眠りの妙な夢から覚めて、まだその視界が眼球に貼り付いている時のような、不可解なビジュアルが画面から立ち上がってくることがある。そういう感じがたまらなく良い。
お墓は成仏してますから廃墟なんかを撮るより断然いいですよ。街の中や田んぼの真ん中にあるお墓には「優しさ」を感じます。
墓石は彫刻ですね、笑
僕、アビィやめたら、石拾って売り歩いて、車椅子修理事業の資金にします、笑
まさにツンデレのデレ抜きというべき厳しい対応。
牛肉よりも刺身を名乗るほうがうまくいくかもしれません。
足の裏がスリッパみたいになって剥がれそうです!
眉毛は社会との架け橋。
昨日の茶話会で、南船場の本店で買った千鳥饅頭を食べた。創業から370年間変わらぬ美味しい和菓子。その頃の人が美味しいと思ったものを今の僕らが食べても美味しいと思う気持ち。時代を経て文明や習慣が変わってもなお残るモノの魅力とは何なのだろうか。そんな作品をつくりたい。
去年の個展3部作をやり終えた時、相当な達成感とともに、意外に呆気なく終わったな…という気持ちもあった。1年間に個展3回したって急に人生が変わるわけでもない。それは東京で個展したからって同じだけど、昨夜搬出をしながら、ようやくこれであの写真のコトが全部終わったのかな…と感じた。
昔、自主映画を作ってた時に感じた事。
製作に関わるスタッフ全員で妥協なく意見を戦わせて研ぎすまされたものを作っていく・・・のは、トップクラスの人間が集まったチームにだけ成せる事で、そこらへんのが集まったチームでは空中分解するのが関の山。より良い妥協をし合って、良いものを作る。
「そこらへんの人」の「妥協なき意見」というのは単に「自分がしたい事を通す我が儘というだけ」で、そんな我が儘をかき集めても良いものはできないという事。
そこがトップクラスとそこらへんの人の違い。良い妥協を繰り返す事で、本当の妥協なき意見が判るようになる。と、僕は思う。
手動の両面印刷って絶対ミスるよね!
VQ写真が絡むと、いろんなことが気楽になって、ひたすら直感だけで動ける感じがする。
廊下ギャラリー・プチアビィでは、「歳末助け合い運動/吹雪大樹の写真ヤミ市」を開催しております。あの作品が!当時の展示物で!破格値で販売中!そろそろ月末なのでよろしくお願いいたします(何を?)
年のラスト個展の作業記録を見ていると、最後の2週間ぐらいは1日2〜4時間ずつぐらいしか寝てない。
霧の立ち込める露天風呂で幽玄な景色を眺めていたら置き薬屋のピンポンで目が覚めた。
人に個展のアレコレの期待を言うのは、自分にもプレッシャーをかけているのである、笑
シンプル イズ ベスト!そしてベストを尽くすのは大変!変化球ナシのまっすぐなやり方で展示することは自分の表現力の上限を知る良い方法かもしれません。
合うか合わないかより、どの色で納得がいくかですね。
液晶モニターの透過光と印画紙の色素とインクジェットの粒々を色合わせできるようなゴージャスな身分でない僕らは、気に入った色をきっちりと選択する、それでいいんです。真理や法則の正解を探してるんじゃないですし。
うっすらと内容を考えて漠然と撮っているが、手応えはまだ透明に近い感じ。今度はあまり量を撮らないのと、額装でやるのは決めている。
むかし、廃墟へよく入り浸っていた時に、ジッと息を潜めて周囲の物音を伺っている感じに似ていた。剥製の眼球とか。あんな感じになる。見えてる色とか。観て数日経ってからでもジワジワくるのは、いいね。
入浴剤はにごり湯しか認めません。
壁面への並びを考え中。写真集の並びをそのまま展開したらイイってもんではない。
中学、高校、専門のころは、夢野久作とかH・P・ラヴクラフトとか、いわゆる怪奇幻想文学が大好きで、特に夢野久作はずいぶん読んだ。そういう本を読んで想起されるビジュアルが自分の作るものに多少の影響を与えている。
お話を伺うと、須田塾に現在通われているとのこと。なるほど、そういう感じかと納得した。
130万画素のVQカメラの画像をA2〜A0サイズに大伸ばしする。拡大したことによる「荒れ」が出来上がりのプリントに加わるのはよくない。元の画の「悪い感じ」を「美しく」保ったまま大伸ばしするという、なんかややこしい処理をしている。なので1枚1枚の調子を見ながらの作業で大変。