覚え書きC
考え尽くした果てに感じることができるようになるわけなんです。
ギャラリー以外の場所で作家さんに遭遇するとだいたいみんなギャラリーの時には見た事も無いような険しい顔してます。
手術完了。点滴盛り合わせ。
#退院即設営
意図しないことが克明に写り込む。これぞ写真!
無理もするし、ときたま無茶もする。
webに写真を載せて世界中に見せられるこの時代に、制約だらけの写真ギャラリーで展示を見るために人が遠くからやってくるのはとても面白いことだけど、それはwebを活用したから成しえた事とも言える。展示は本格派でwebはお手軽なんてことはない。面白いものを作ってるから人が来る事が根本。
サンドイッチ2個を30分かけて食べる。
無理せんとこうと思って自分の行動を控えてたら、それは徐々に右肩下がりになって消えていく前兆だわ。
闇に佇むモノたちがストロボで浮かび上がる一人称視点のホラーゲームのような世界。
「伝える」だけじゃまだ一歩足りない。それなら写真なんかで置き換えて作品つくるよりも、想いの丈を片っ端から話して歩いた方が分かり易いわけで。簡単なことをわざわざ難しくしてる。カタチにするべきは「伝えた、その先」のことじゃないのかと、そういうことをいつも考えている。
なんか固いもん噛まんと頭がボケっとしてくる。
覚えたばかりの系統樹に、コレはアレ、ソレはコレと、聞いただけの分類方法で当てはめて断定し始めると、違うとこに当てはめて正体を解明したつもりになってることもあるし、新しいモノとの出会いはもれなく見逃す。
プリントサイズで印象が変わる写真ですね。
A4→風景
A3→向こうに人がいる
A2→あれ?立ちショ◯?
B0→モロ出し
自分にとっての非日常は、他の誰かにとっての日常ではないのかと考えると、日常・非日常というのは自己を基準とした相対的な感覚であり、同じ事柄を視座を変えて眺めているだけということになるのだろうか。似たようなことで絶対的な感覚と言えるのは、現実・非現実のほうかもしれない。
脂肪を減らすだけではまだ一歩足りない。そう、筋肉・・・無理。
掴みどころのない夢のような気持ち。いや、夢はそういうものなのだ。
ギャラリー以外の場所で作家さんに遭遇するとだいたいみんなギャラリーの時には見た事も無いような険しい顔してます。
手術完了。点滴盛り合わせ。
#退院即設営
意図しないことが克明に写り込む。これぞ写真!
無理もするし、ときたま無茶もする。
webに写真を載せて世界中に見せられるこの時代に、制約だらけの写真ギャラリーで展示を見るために人が遠くからやってくるのはとても面白いことだけど、それはwebを活用したから成しえた事とも言える。展示は本格派でwebはお手軽なんてことはない。面白いものを作ってるから人が来る事が根本。
サンドイッチ2個を30分かけて食べる。
無理せんとこうと思って自分の行動を控えてたら、それは徐々に右肩下がりになって消えていく前兆だわ。
闇に佇むモノたちがストロボで浮かび上がる一人称視点のホラーゲームのような世界。
「伝える」だけじゃまだ一歩足りない。それなら写真なんかで置き換えて作品つくるよりも、想いの丈を片っ端から話して歩いた方が分かり易いわけで。簡単なことをわざわざ難しくしてる。カタチにするべきは「伝えた、その先」のことじゃないのかと、そういうことをいつも考えている。
なんか固いもん噛まんと頭がボケっとしてくる。
覚えたばかりの系統樹に、コレはアレ、ソレはコレと、聞いただけの分類方法で当てはめて断定し始めると、違うとこに当てはめて正体を解明したつもりになってることもあるし、新しいモノとの出会いはもれなく見逃す。
プリントサイズで印象が変わる写真ですね。
A4→風景
A3→向こうに人がいる
A2→あれ?立ちショ◯?
B0→モロ出し
自分にとっての非日常は、他の誰かにとっての日常ではないのかと考えると、日常・非日常というのは自己を基準とした相対的な感覚であり、同じ事柄を視座を変えて眺めているだけということになるのだろうか。似たようなことで絶対的な感覚と言えるのは、現実・非現実のほうかもしれない。
脂肪を減らすだけではまだ一歩足りない。そう、筋肉・・・無理。
掴みどころのない夢のような気持ち。いや、夢はそういうものなのだ。